西本願寺の歴史
西本願寺(にしほんがんじ)は、浄土真宗(じょうどしんしゅう)という宗派で鎌倉時代,、親鸞(しんらん)聖人によって開かれ、室町時代に蓮如(れんにょ)上人によって広く深く浸透し、発展していきました。もともと本願寺は、親鸞聖人の廟堂から発していて、親鸞聖人が90歳で入滅されるとそのお墓が簡素であったのでその十年後に六角の大谷廟堂をたて、中に親鸞聖人
の影像を安置し遺骨を移しました。これがはじまりです。そののち、廟堂の世話をしていた三代覚如上人の晩年から次の四代善如上人の頃に阿弥陀如来を安置するようになりました。八代蓮如上人の頃、勢力をのばした浄土真宗は比叡山から疎まれ大谷本願寺(西本願寺)は比叡山の衆徒に壊されてしまいました。蓮如上人は難をさけて近江や北陸を転々としながら布教活動をしたのです。
そして、大阪の枚方出口<地名>から京都山科へと戻り、御影堂をたてられその功績は北海道から九州まで広がっていったのです。蓮如の時代が終わっても紆余曲折あり、大坂石山本願寺さらに和歌山、大坂貝塚、大坂天満へと転々とし、豊臣秀吉の京都市街経営計画に基づき京都に帰ることになり、ようやく現在の京都・七条堀川に落ち着くことができ現在に至ります。
宗派・本尊など
別名: 龍谷山 本願寺
宗派: 浄土真宗 本願寺派 本山
本尊: 阿弥陀如来
ユネスコ世界遺産(1994) 京都17寺社
西本願寺の見所
唐門(国宝)
境内の南側にあり、見学は自由です。豊臣時代の伏見城の遺構と言われています。
1日眺めていても飽きない事から『日暮門』とも呼ばれています。
書院(対面所及び白書院)(国宝)、黒書院及び伝廊(国宝)
対面所は、203畳敷の大広間で、とても立派な書院がついています。白書院は賓客をお迎えする正式な書院で、一の間、二の間、三の間からなります。黒書院は粗木を用いた私的な室で、歴代ご門主が寺務をとられた所です。白書院は原則非公開で不定期の特別公開のみです。黒書院は公開された事はありません。(2011年現在)
大書院庭園「虎渓の庭」(特別名勝)(史跡)
大書院対面所の東にあり、桃山時代の庭園様式や手法を伝えます。広さ760平方メートルの枯山水式庭園で、洛中における江戸時代三大庭園の一つに数えられ、昭和30年に、本願寺大書院庭園として国の特別名勝及び史跡に指定されています。その頃の日本庭園としては珍しく蘇鉄が使われている印象的な庭園です。原則非公開で不定期の特別公開のみです。
北能舞台(国宝)
南北にある能舞台のうち北側のものをいいます。現存する能舞台では最古と言われています。原則非公開で不定期の特別公開のみです。
南能舞台(重文)
現存する能舞台としては最大で、左の橋掛(はしがかり)の距離がながく舞台まで間に合うのに大変なので役者泣かせと言われています。毎年5月21日の親鸞上人の誕生日・宗祖降誕会(しゅうそごうたんえ)には、観世流による祝賀能が演じられています。(抽選) 原則非公開で不定期の特別公開のみです。
飛雲閣(国宝)
その他
おにしさん
西本願寺は、すぐ近くにある同じ浄土真宗大谷派の東本願寺と区別をつけるために『おにしさん』と呼ばれています。因みに、東本願寺は『おひがしさん』です。
逆さいちょう
御影堂植栽時から剪定されつづけこのような形になったようですが、江戸時代の大火の時に水をふいて御影堂(ごえいどう)を守ったそうです。その為『水ふきいちょう』とも呼ばれています。また西本願寺の境内は国の史跡にも指定されています。
新撰組
幕末、屯所として使用していた壬生の八木邸の人数が増えることにより、狭くなってきたため壬生から近くの西本願寺へ屯所を移しました。当時、本願寺境内で新撰組は大砲の演習までしていたそうです。
案内
〒:600-8358
所在地:京都市下京区堀川通花屋町下ル
℡:075-371-5181
地域別日本遺産
秋の西本願寺 奥・御影堂(ごえいどう)<重文>、手前・阿弥陀堂(あみだどう)<重文>