三井寺(園城寺)の歴史
667年、天智天皇により飛鳥から近江に都が移され、近江大津京が開かれました。672年天智天皇が亡くなり、大友皇子(天智天皇の子・弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟・天武天皇)が継承をめぐって争い(壬申の乱)、敗れた大友皇子の子、大友与多王が父の霊を弔うために、田園屋敷を寄進し、天武天皇から「園城」を賜ったことが園城寺(おんじょうじ=三井寺の事)の始まりとされています。貞観年間(859~877)になって、智証大師・円珍(ちしょうだいし・えんちん)が再興し、幅広い信仰を集めていました。円珍死後、比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、焼き討ちにあうこともたびたび、その上、豊臣秀吉に没収され廃寺同然など、何度の苦難を乗り越えてきたことから「不死鳥の寺」ともいわれています。「三井寺」の通称は、天智・天武・持統天皇がここに湧き出る霊泉を、産湯に使われていたことから「御井(みい)」の寺といわれていたことからです。
宗派・本尊など
別名: 園城寺(おんじょうじ)
宗派: 天台寺門宗 総本山
本尊: 弥勒菩薩
三井寺(園城寺)の見所
金堂(国宝)
豊臣秀吉の正室・北政所ねねによって再建されたもので本尊・弥勒菩薩が安置されています。
大門・仁王門(重文)
元々は、常楽寺(湖南市石部町)の門で、豊臣秀吉によって伏見に移され、1601年に徳川家康によって三井寺に移されました。
唐院(大師堂・潅頂堂・三重塔)<全て重文>
唐院は、智証大師・円珍が858年入唐求法(にっとうぐほう=遣唐使で唐で学ぶ事)により伝わった経典や仏具などを内裏の仁寿殿(じじゅうでん)を下賜され、そこに納め、伝法潅頂<でんぽうかんじょう=阿闍梨(あじやり)の位にのぼることを認める儀式>の道場としたことに始まります。三重塔は、1597年豊臣秀吉によって伏見城に移築された吉野の比蘇寺(ひそでら)の塔を後年、徳川家康が三井寺に寄進したものです。
霊鐘堂の弁慶鐘<重文>
奈良時代の遺品ですが、かなり傷や欠損があります。それは、天台宗寺門派(三井寺)と山門派(延暦寺)の抗争の名残と言われています。当時の抗争の時弁慶が、ここ三井寺から奪った鐘を延暦寺まで引き摺り上げて行く途中に鐘を撞いてみると『いのー・いのー』(関西弁で帰るという意味)と鳴ったので弁慶は怒って谷底に捨ててしまったそうです。その他にも、お寺に変事があるときは鐘が鳴らなくなったり、良いことがあるときは自然に鳴るなど霊鐘といわれる不思議な鐘なのだそうです。
光浄院客殿(国宝)
光浄院は、三井寺で一番格式の高い子院で、城郭を思わせる豪快な石垣が見られます。内部は、一之間の付書院の造りが、伝統的な形式の中に新しい要素を盛り込んだ、桃山時代を代表する書院建築として極めて貴重です。一之間、二之間には、狩野派の障壁画があります。光浄院客殿は一般公開されていません。ハガキ申し込みによる特別拝観ができます。(3人以上)
勧学院客殿(国宝)
勧学院は学問所として1321年に創立されました。内部の各部屋は襖で仕切られ、それを払えば大広間となり、学問所であったことがうかがえます。内部は南北を大きく三列に分け、南列の一之間と広い二之間には、狩野光信による華麗な障壁画が飾られています。勧学院客殿は一般公開されていません。ハガキ申し込みによる特別拝観ができます。(3人以上)
新羅善神堂(しんらぜんじんどう)<国宝>
智証大師(ちしょうだいし)ゆかりの新羅明神像(国宝)を安置する新羅善神堂は、足利尊氏により復興されたといわれています。簡素さの中に整った上品さを醸し出しているこの建物は、近江に三間社流造の古建築が多く伝えられますが、極めて高い評価を受けています。
その他
三井の晩鐘(重要文化財)
案内
〒: 520-0036
住所: 滋賀県大津市園城寺町246 園城寺(三井寺)事務所
℡: 077-522-2238