姫路城の歴史
姫路城(ひめじじょう)は、1346年南北朝時代・赤松貞範の築城とされています。その後、黒田氏や豊臣秀吉が城主として入城し、江戸時代初期に池田輝政によって今の立派な城郭が築かれ、版籍奉還までの270年間に6氏31代の城主によって治められました。戦時中も運よくアメリカ軍の爆撃から逃れ爆撃を受けた数発もたまたま不発弾で破壊を逃れることができたのです。現在では、現存する城郭建築の中でも国宝の四つの城(他、彦根城・犬山城・松本城)に含まれ、当時の様式をほぼ完全に伝え世界的にも非常に高い評価を受け、ユネスコ世界遺産に登録されています。
姫路城の別名・遺産登録など
別名 白鷺城(しらさぎじょう・はくろじょう)
ユネスコ世界遺産登録(1993) 姫路城 (世界文化遺産)
姫路城の見所
姫路城天守閣
大天守<国宝>
乾小天守(いぬいこてんしゅ)<国宝>・西小天守(にしこてんしゅ)<国宝>
東小天守(ひがしこてんしゅ)<国宝>
姫路城の天守閣は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって、姫山の頂上に三重で建てられましたが、後の池田輝政が建てなおしました。その大きさは、現在のもので、五重の六階、地下一階の大天守とその脇の小天守三つ(東小天守・西小天守・乾小天守)で構成され、そのそれぞれを二重の渡櫓(わたりやぐら)で繋げています。これを連立式天守と言います。
ニの渡櫓(にのわたりやぐら)<附指定国宝>
ニの渡櫓は、大天守と西小天守を繋げるもので、一階には水五門が設けられています。門は内庭へと繋がり大天守に至ります。
菱の門(ひしのもん)<重文>
姫路城内で最も大きな門です。安土桃山時代の様式が残されています。禅宗寺院などでよくつかわれている火灯窓(かとうまど・花頭窓)が城郭に使われているのは珍しいのだそう。
姫路城跡(特別史跡)
姫路城内は特別史跡として、国に指定されています。
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ワの櫓(重文)
ここから、中に入る事になります。
ルの櫓とヨの渡櫓(重文)
この遺構の中を歩いて見学しながら天守を目指します。
百間廊下(重文)
御殿を囲むように造られた300mもの廊下に並ぶ部屋には、千姫に仕えた侍女たちが住みました。
はの門(重文)
坂の上にある門は、天守がすぐそこに見える為、敵はもうすぐ着くと錯覚します。門扉の上方床面には石落としがあり、櫓(やぐら)の真ん中にある武者格子窓は、菱の門方面を見通す警備の役割があり、菱の門と連動して警備していました。
にの門(重文)
天井が低くなっており、上から槍で攻撃することができるようになっています。
天守閣より
西の丸方面の景色
その他
好古園
姫路城西御屋敷跡に姫路市制百周年を記念して造営した池泉回遊式庭園です。平成4年4月29日開園しました。
播州皿屋敷
現在の姫路城ができる前の話で、姫路城第9代城主・小寺則職の家臣・青山鉄山が主家乗っ取りを企てていましたが、衣笠元信という家臣が察知し、お菊という自分の妾を青山鉄山の家の女中にし謀略を探らせたのです。結果、花見の席で毒殺を計画している事が発覚し、城主を救うことができます。しかし、乗っ取りに失敗した青山鉄山は家来の弾四朗に密告者を捜せと命令しましたが、弾四朗は以前からお菊の事が好きだったので、自分の妾になれと言い寄りました。しかし、お菊はこれを拒否した為、密告していたお菊が管理していた10枚ないといけない毒消しの皿を一枚隠して、因縁をつけ、責め殺して古井戸に捨ててしまったのです。その古井戸が今も『お菊井戸』として姫路城内に残っています。
案内
〒: 670-0012
住所: 兵庫県姫路市本町68番地
℡: 079-285-1146 (姫路城管理事務所)