彦根城の歴史
彦根城(ひこねじょう)は、徳川家康の命により、1604年より着工され、18年の歳月を経て完成しました。井伊直政は、関ヶ原の戦いで徳川に貢献したので、石田三成の居城、佐和山城を与えられますが、直政が死後、直継が彦根山に城を移築することを家康に申し出たことがきっかけで、彦根城が造られました。井伊家は、明治維新にいたるまで14代にわたり彦根藩主をを務め、13代井伊直弼は大老となり幕府存続のため開国をすすめましたが、「桜田門外の変」で暗殺されます。明治維新後、全国に廃城令が出され、ここ彦根城でも解体が進みます。が、明治天皇と北陸巡幸のに同行していた17代内閣総理大臣、大隈重信が彦根城に立ち寄り、天皇に保存を願い出たという話があります。そして、現在では国の特別史跡に指定されており、国宝の城という事で世界遺産を目指しています。
彦根城の別名
別名: 金亀城(こんきじょう)
彦根城の見所
天守・附櫓及び多聞櫓(てんしゅ・つけやぐらおよびたもんやぐら)<国宝>
彦根城の天守は大津城から移築されたもので、もともと四層あったものを三層にしているので上のバランスが少し小さくなっています。近世の城で天守が残っているのは、弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城。このうち、彦根城、松本城、犬山城、姫路城の4城の天守は国宝です。
天秤櫓(てんびんやぐら)<重文>
天秤櫓は、上から見ると「コ」の字形をしており、両隅に2階建ての櫓を設けて中央に門が開く構造となっています。あたかも両端に荷物を下げた天秤のようであることから江戸時代より天秤櫓と呼ばれています。
太鼓門櫓(たいこもんやぐら)<重文>・続櫓(つづきやぐら)<重文>
天守を目前にした最後の門が太鼓門櫓です。門櫓の南には、「く」の字に曲がった続櫓が付設されています。太鼓門櫓も、天守や天秤櫓・西の丸三重櫓などと同様に、築城時にほかの場所から移された建物ということがわかっています。
時報鐘(じほうしょう)
『鐘の丸』からですと城全体に響かなかったので、太鼓門櫓の下に移されたものです。今も定時に鐘がつかれ「日本の音風景百選」に選ばれています。幕末期12代藩主井伊直亮の時に、より美しい音色にしようと鋳造の時に、大量の小判が投入されました。
玄宮園(げんきゅうえん)<名勝>
「槻(けやき)御殿」と呼ばれた彦根藩の下屋敷です。1677年に4代藩主井伊直興により造営か始まり、2年後に完成したと伝えられています。現在は、槻御殿の庭園部分を玄宮園、建物部分を楽々園(らくらくえん)と称しています。
案内
〒: 522-0061
住所: 滋賀県彦根市金亀町1-1 彦根城管理事務所
℡: 0749-22-2742