智積院の歴史
智積院(ちしゃくいん)はもともと紀州岩出(きしゅういわで)の根来山(ねごろさん)、大伝法院(根来寺)の塔頭寺院(たっちゅうじいん)でありました。 大伝法院は真言宗の僧、覚鑁(かくばん)が1130年、高野山に創建した寺院でしたが、教義上の違いから覚鑁は高野山を去り、1140年、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てたのです。 しかし、近世にはいって勢力が大きくなることを良しとしなかった豊臣秀吉に根来寺は焼き討ちにあい全山消失してしまいます。 それから、数年後、関ヶ原で豊臣家は徳川家に敗れ滅びてしまいます。徳川家康はこの後、智積院に京都東山の土地を与えようやく復活することになったのです。 さらにその近くにあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を分け与えられるという歴史の縁により寺勢を大きくしていきました。祥雲禅寺は秀吉が3歳で亡くなった鶴丸の菩提を弔う為に建てた寺院で、その祥雲禅寺の客殿にあった、とても有名な国宝障壁画、長谷川等伯の障壁画は、火災で智積院に渡ったものなのです。
宗派・本尊など
別名: 五百佛山 智積院 根来寺
宗派; 真言宗 智山派
本尊: 金剛界 大日如来
智積院の見所
楓図(かえでず)など国宝障壁画
『桜図』壁貼付(国宝)
長谷川等伯の子、久蔵25歳のときの作品です。久蔵は翌年26歳でこの世を去ります。
『楓図』壁貼付(国宝)
長谷川等伯55歳のときの作品です。息子の死後、息子の分まで精進しようとこの絵を書き上げました。
『松に秋草図』屏風(国宝)
長谷川等伯作
『松に黄蜀葵図』(まつにとろろあおいず)壁貼付(国宝)
長谷川等伯作
『雪松図』襖(国宝)
長谷川派作品
(実物を見学することができます。)
智積院庭園(名勝)
この名勝に登録されている庭園は池の水が縁の下まで入り込むという作りをされています。これは京都ではあまり見ない形式の庭園です。
その他
長谷川等伯について
長谷川等伯は石川県出身で、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍していた絵師で狩野派とは強烈なライバル意識を持ち、千利休らの茶人たちから中国絵画の知識を吸収し独自の画風を確立していったといわれています。
案内
〒:605-0951
所在地:京都市東山区東大路通り七条下る東瓦町964番地
℡:075-541-5361