大阪城の歴史
大阪城は、安土桃山時代・豊臣秀吉が石山本願寺(いしやまほんがんじ)〈現・京都の西本願寺の事〉の跡地に築城し豊臣氏の隆盛の証しの居城でした。しかし、関ヶ原の戦いで敗北した豊臣方は、大坂夏の陣で豊臣氏滅亡と共に大阪城も焼失します。その後、主に徳川家の居城として再建されることとなります。現大阪城天守は豊臣時代のものと言うより徳川時代のもので豊臣時代の天守は一回りか二回り小さかったのです。しかし、地元大阪では、大阪城と言えば『太閤さん』(豊臣秀吉の事)のお城として名が通っています。江戸時代には、たびたび火災による損傷と修復を繰り返しました。そして、太平洋戦争時も空襲の標的になり焼失しまたが、近代復興時に再建され現在は鉄筋コンクリート製となっています。また、大阪城公園として、春には梅、桜の名所となっています。
別名など
金城(きんじょう)または、錦城(きんじょう)
大阪城の見所
外濠(そとぼり)・多聞櫓(たもんやぐら)〈重文〉・千貫櫓(せんがんやぐら)〈重文〉
千貫櫓は、江戸時代1620年小堀遠州の設計とされています。大阪城の大手口を守る重要な隅櫓の一つで、名称の由来については、織田信長軍の石山本願寺攻め(大阪城築城の前は石山本願寺でした)の時、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、あの櫓さえ落とせるなら銭千貫文与えても惜しくはないと話し合ったというエピソードからきています。
手前・多聞櫓、中央・千貫櫓 (大手門<重文>の前の橋からの眺め)
大手門(重文)
1628年の建造で高麗門様式です。昔は追手門とも書きました。
手前から大手門・多聞櫓・千貫櫓 (大手門の前の橋からの眺め)
大阪城・桜門(重文)
本丸の正面入り口で豊臣時代よりこの周辺に見事な桜並木があったことからつけられたといいます。
大阪城・天守
数々の災難(火災・空襲)にあい、その度に修復・再建されてきました。現在は鉄筋製です。
大阪城・梅園
大阪城梅園は、3月初旬頃には春を告げ満開になります。
その他
豊國神社(ほうこくじんじゃ)
豊臣秀吉・秀頼・秀長を祀った神社で京都(豊国神社・とよくにじんじゃ)など他の地域にもあります。1879年創建です。
豊国神社・秀石庭
豊国神社の本殿右にある昭和の作庭家・重森三玲(しげもりみれい)の作庭です。(1972年) 秀吉の秀と元石山本願寺の石からとって命名されています。石舞台には豊臣秀吉の馬印(うまじるし)ひょうたんが描かれています。
案内
〒: 540-0002
住所: 大阪市中央区大阪城1-1
℡: 06-6941-3044 天守閣事務所