二条城の歴史
二条城は、1603年、徳川家康が京都御所の守護と将軍上洛の際の宿所として築城されました。 豊臣秀頼と家康の会見もここで行われ、その際に秀頼に驚異を感じた家康は豊臣家を滅ぼす決意をしました。 1611年、大坂冬の陣が勃発。二条城は本御所(家康)の本営となり、伏見城から出撃する徳川秀忠の軍勢に続き家康は、ここ二条城から大坂へと駒を進める運びとなりました。翌年、夏の陣にて徳川方の古田織部の家臣が二条城に火をかけ家康の暗殺の陰謀が明るみに出たことで、古田織部の切腹・家財没収となる事件もありました。1620年、秀忠の娘(和子)はここから後水尾天皇に入内の為、行列を作って御所に入りました。 その後、家光が将軍、秀忠が大御所となり1626年後水尾天皇の行幸を仰いで徳川幕府の権威を世に知らしめ、1634年家光が上洛しました。以来230年間将軍の上洛はなかったそうです。この間、雷火により五層天守の焼失、天明の大火による本丸御殿の焼失がありましたが放置された状態でした。1867年最後の将軍、徳川慶喜が二の丸御殿大広間にて大政奉還を宣言し、政権は朝廷に移され、265年続いた江戸幕府がここで幕を閉じました。その後、明治維新を迎え、二条城は宮内庁の所管となり「二条離宮」と改名され、1934年京都市に下賜され1952年文化財保護法により、二の丸御殿6棟が国宝、ほか22棟が重要文化財、翌年二の丸御殿の庭園が特別名勝に指定されます。そして、二条城全体が国の史跡として指定され、さらに、1994年ユネスコの世界遺産に登録されて以来、世界中の観光客がこの地を訪れています。
二条城の別名・遺産登録など
別名: 元離宮二条城
ユネスコ世界遺産登録(1994) 京都17寺社
二条城の見所
二の丸御殿(国宝)
安土桃山時代の武家屋敷風書院造の代表的遺構です。 御車寄、黒書院、白書院など国宝の宝庫で、狩野派の障壁画や襖絵が内部では多数みることができ豪華絢爛です。
二の丸庭園(特別名勝)
二条城築城当初、『洛中洛外図』などの屏風図から現在の位置に庭園があったという事が推定されており、小堀遠州がそれを改修した書院造り庭園です。江戸時代初期の作庭当初からその後、多少手を加えられています。別名『八陣の庭』とも呼ばれています。
二条城の枝垂桜
二条城もまた桜の名所で、枝垂れ桜や桜の園にはとても様々な種類の桜が植樹されています。
東大手門(重文)
堀川通り沿いの正門。拝観のときはここから入場します。内部から、外に通じる門は東西南北各一つずつあります。
本丸櫓門(重文)と東橋
本丸の向かうにはこの橋と門をこえます。昭和初期まで2階建ての廊下が存在していたそうです。
本丸御殿(重文)
本丸の中に、第15第将軍徳川慶喜の住居として建てられましたが、破損が大きく1881年撤去されます。現在の建物は1893年、京都御所の北の今出川門脇にあった八条宮(桂宮)の本邸の一部を移築したものです。
唐門(重文)
1602年から1603年にかけて建造された唐破風の極彩色の門。 二の丸御殿の正門で奥に見えるのが、御車寄と二の丸御殿です。
案内
〒:604-8301
所在地:京都市中京区二条堀川西入二条城町541
℡:075-841-0096