本能寺の歴史
本能寺は、当初「本応寺」という寺号で、日隆により室町時代の1415年に京都油小路高辻と五条坊門の間(現在の佛光寺辺り)に創建されました。1433年に六角大宮に移転した際に「本能寺」と改め、その後天分の乱(1536年)で全焼し1547年~1548年に四条西洞院・油小路・六角・錦小路に広大な寺域を賜り、子院30あまりを構える大伽藍に復興し、前後7回の再建で最大の規模となりました。しかし、1582年明智光秀による織田信長襲撃で全焼し、1589年豊臣秀吉によって再建された際に現在の場所(京都市中京区)に移転されました。その後も1864年蛤御門(はまぐりごもん)の変で全焼し仮本堂が建設され、1928年現本堂が建てられた際(7回目の建立)に、同じ日隆に創設された兵庫県尼崎市「本興寺」を教学の道場、そして本能寺を布教の道場として、共に山号を用いず両山一貫主性をとっていましたが、その後別置され現在に至ります。
宗派・本尊など
宗派: 法華宗 本門流 大本山
本尊: 南無妙法蓮華経曼荼羅
本能寺の見所
本堂
昭和3年の再建です。
信長公廟
信長の三男信孝が本能寺の変のあと豊臣秀吉と明智光秀を討った後、本能寺の住職に本能寺を再興し、そこに父信長の廟を建てるようにと命じました。それから数年後、秀吉から現場所をもらい廟を建てたそうです。
塔頭寺院
「恵昇院」、「蓮承院」、「定性院」、「高俊院」、「本行院」、「源妙院」、「龍雲院」
以上、7院が境内の南側、北向きに、一列に並んでいます。
その他
本能寺の変
「敵は本能寺にあり!」明智光秀が当時、織田信長が宿泊していた四条西洞院にあった本能寺を襲う事件は誰もが知っている歴史上の出来事です。それは、天下統一に最も近かった織田信長と嫡男であり、後継者でもある織田信忠を、有力家臣の一人であった明智光秀が、亡き者にするという事件でした。しかし、光秀が反旗を翻した原因については定かではありません。多くの歴史家が研究していますが、現在でも定説と呼ばれるものは確立されていないのです。光秀の恨みや野望に端を発するという説、光秀以外の首謀者(黒幕)がいたとする説も多数あり、日本史上の大きな謎のひとつとなっています。この時に織田信長は、本能寺に火を放って自刃しています。しかし、遺骸は見つからなかったとされる謎の部分もあり、歴史の謎に思いをはせる事件です。
本能寺の名前
本能寺に行ってみますと、本能寺の「能」の字の右側のつくりの部分の、2つの「ヒ」が「去」のような字を使っています。これは本能寺が何度も焼き討ちに遭っている為、『ヒ』(火)が『去』る、という意味で字形を変えているといわれています。
案内
〒:604-8091
所在地:京都市中京区寺町通御池下本能寺前町522
℡:075-231-5335
まめ情報
近くのお店・・・・
鳩居堂(きゅうきょどう)
京都市中京区寺町姉小路上ル下本能寺前町520
℡:075-231-0510
営業時間:10:00~18:00
定休日:日曜日(日曜日を含む連休の場合は営業)
寺町通り、本能寺の向かいにあります。和紙素材の封筒・便箋・はがき、お香や筆などなど・・・。店内は非常に広くたくさんの商品であふれています。鳩居堂の優しい模様がたくさんの商品にあしらわれています。(2011年 2月)