岸和田城の歴史
岸和田城は、和泉国守護の楠木正成が、甥の和田高家を岸和田に派遣し、岸和田古城を築かせ「岸の和田」から「岸和田」と変化していったといわれています。楠木氏の後、和泉国守護となった山名氏清が和田氏の後任に信濃氏を派遣、そして信濃泰義により現在の場所に移されたとされています。1585年、織田信長と豊臣秀吉の紀州攻めの拠点となり、紀州根来寺討滅後に伯父、小出秀政を城主とし、城閣の整備をしこの時に天守も築かれました。以降1871年廃藩置県により、岸和田城も廃城となるまで、何代もの城主を迎え、その間紀州監視の岸和田城として栄えます。昭和29年、現在の3重の天守が復興、昭和49年に城門、櫓などが復興再建されました。
別名など
千亀利城(ちきりじょう)、猪伏山滕城(いぬぶせやまとうじょう)など
岸和田城の見所
天守
今現在の天守は3層で昭和29年に復興されたものです。もともとは5層からなっていたようで、今より10m程高かったようです。1827年の落雷で消失され、昭和29年まで天守のないままの状態でした。
その他
八陣の庭
昭和28年、昭和の作庭家の第一人者である重森三玲により、諸葛孔明の八陣法をイメージして作られました。庭の着工時は天守の復興がされていない時ですが、復興後天守から見る『八陣の庭』の石組・砂紋が美しく、まるで重森三玲が天守から指揮したかのようです。
案内
〒: 596-0073
住所: 大阪府岸和田市岸城町9-1
℡: 072-431-3251 天守閣事務所