萩の歴史

萩(はぎ)は、江戸時代に、毛利氏が治める長州藩の本拠地となった都市で、吉田松陰(よしだしょういん)の私塾「松下村塾」(しょうかそんじゅく)から多くの人材を数多く育成し、桂小五郎(木戸孝允)、吉田稔麿、高杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい)、伊藤博文、山縣有朋(やまがたありとも)らを出し、又彼らと友好があった井上聞太(井上馨)らの、明治維新の指導者を出した明治維新と縁の深い町です。また、古い町並みが今でも多数残っており、重要伝統的建造物群保存地区が宿場町まで含めると萩市内に4か所あります。それほど知られていませんが、その規模は世界遺産級といってもいいでしょう。

萩の見所

平安古(ひやこ)<重要伝統的建造物群保存地区>

平安古は、旧萩城・三の丸を囲む外堀の南に位置しています。武士のうち重臣の多くは三の丸である堀内に暮らしていましたが、平安古では数多くの武士が屋敷を構えたのです。保存地区は橋本川沿いにあり、江戸時代の地割りをよく残し、当時の屋敷構えをうかがうことができます。現在でもそれらの武家屋敷の主屋、長屋門、長屋、土蔵が、鍵曲(かいまがり)を構成する長い土塀とともに残っており、藩政期の姿をよく留めています。 国の伝統的建造物群保存地区制度が始まった昭和51年、堀内伝建地区とともに、全国で最初の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。伝統的建造物に特定された建築物は11件、土塀や門は39件。地区面積は約4.0haです。

萩・平安古地区・鍵曲(かいまがり)
                                   鍵曲(かいまがり)






萩・平安古地区・鍵曲(かいまがり)
                              鍵曲(かいまがり)






ページトップへ


堀内(重要伝統的建造物群保存地区)

城下町萩は、毛利輝元が1608年に指月山に城を築き、町割をおこなったことに始まり、保存地区は三の丸にあたる堀内のほぼ全域で、藩の諸役所(御蔵元・御木屋・諸郡御用屋敷・御膳夫所・御徒士所)と、毛利一門をはじめとする大身の侍屋敷が建ち並んでいました。近世城下町の侍屋敷としての地割をよく残し、土塀越しにみえる夏みかんとともに歴史的風景を残しています。

萩・堀内地区・土塀越しの夏みかん
                           萩・堀内地区・土塀越しの夏みかん






萩・堀内地区・鍵曲(かいまがり)
                               萩・堀内地区・鍵曲(かいまがり)






萩・堀内地区
                              萩・堀内地区






ページトップへ


浜崎(重要伝統的建造物群保存地区)

浜崎地区は、城下町が形成された阿武川下流デルタ北東端に、城下町の形成にともなって開かれれた港町である。近世は廻船業と水産業で栄え、大正から昭和初期にはイリコや夏みかん等の交易で栄えました。江戸時代以来の街路構成及び敷地割が残り、江戸時代から昭和初期に建てられた建物が多く残り、御座船(ござぶね=天皇・公家・将軍・大名などが乗るための豪華な船)を納めた御船倉は国史跡に指定されています。

御船倉(おふなぐら)<史跡>

御船倉は藩主毛利家の御座船を格納した建造物です。御船倉は1608年・萩城築城後まもなく建てられたと推測されています。屋根があるこの種の船の格納庫は全国的にも萩だけです。もともと4棟ありましたが、後に3棟は解体されてしまい現在残っているのは大規模な御船倉1棟のみです。

萩・浜崎地区・御船倉
                              萩・浜崎地区・御船倉






萩・浜崎地区
                              萩・浜崎地区






萩市佐々並市(重要伝統的建造物群保存地区)

萩市、佐々並市(ささなみいち)は、日本海側に位置する萩城下町と瀬戸内側の三田尻の港を結ぶ萩往還沿いの山間部に位置します。江戸期・藩主の休憩する御茶屋を起点に宿場町としての町並みが成立したとみられ、保存地区の中心・萩往還沿いには、幕末から近代にかけて建てられた茅葺(かやぶき)や赤色の石州瓦(せきしゅうがわら)で葺かれた主屋が建ち並び、周囲の棚田(たなだ)を構成する石垣や水路と一体をなす町並みを形成しています。




松下村塾

松下村塾(しょうかそんじゅく)は、江戸時代末期に長州藩士の吉田松陰が講義した私塾です。長州・萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に、松陰の叔父である玉木文之進が1842年に設立し、松陰も学んでいます。

松下村塾
                                松下村塾






ページトップへ


旧湯川家屋敷

藍場川(あいばがわ)沿いの表通りに長屋門を構えその奥に玄関、座敷と茶室をそなえた母屋があります。年代は明らかではありませんが、武家屋敷的な建物であるといわれています。ここでは、藍場川の水をまず庭の池に引き込み、池から建物の下をくぐって台所に水を導いてます。台所には「ハトバ」が作られ、洗い物などに使われた水は再び藍場川に戻されます。「ハトバ」は湯殿にも作られており、雨でも濡れずに水を汲むことができます。このような水の利用法は藍場川周辺の民家としては典型的なもので、しかもその技術は非常に優れています。

旧湯川家屋敷
                       旧湯川家屋敷・外






旧湯川家屋敷
                       旧湯川家屋敷・中「ハトバ」






旧湯川家屋敷・庭園
                    旧湯川家屋敷・庭園






ページトップへ


木戸孝允生家

明治維新の三傑といわれた木戸孝允(桂小五郎)の生家で1833年萩藩医・和田昌景の長男として生まれ、後に藩士・桂家の養子となり“桂小五郎”と名乗ります。藩校『明倫館』に通い吉田松陰の兵学門下となり、1862年藩の要職に就き京へと出て国事に奔走。1865年、藩命により姓を“木戸”と改めることとなり翌年、坂本龍馬の仲介のもと薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通らと「薩長同盟」を結び明治維新に尽力します。維新後は、五箇条の御誓文の起草、版籍奉還、廃藩置県などの推進に功績を残しますが、心労がたたり1877年、西南の役の途中で病死。享年45歳でした。

木戸孝允・生家
                              木戸孝允・生家






高杉晋作生家

幕末の風雲児・高杉晋作の生まれ育った家です。建物は江戸期より縮小されていますが、当時の面影をよく残しています。敷地内には、晋作ゆかりの品や東行と号した句碑・産湯の井戸などがあります。晋作は、1839年に萩藩大組士、禄高200石 高杉小忠太の長男として生まれました。藩校『明倫館』に通う一方、『松下村塾』にも通い、久坂玄瑞(くさかげんずい)と並び松門の双璧と称されます。1862年、外国に支配される清国(現:上海)を視察し危機感を抱いた晋作は、翌1863年に身分を問わない我が国初の軍事組織「奇兵隊」を功山寺(下関市)にて挙兵します。討幕戦を勝利へと導きますが、肺病が悪化し下関・吉田(現:東行庵)に隠居。1867年・結核のため、享年29歳という若さでこの世を去ることになります。

高杉晋作・生家
                             高杉晋作・生家






桂太郎・旧宅庭園

桂太郎は1847年に、 萩の平安古(ひやこ)で生まれ、3オの時に川島のこの場所に移り住みました。 藩校である『明倫館』で勉強し、 戊辰戦争(ぼしんせんそう)では 奥羽地方・鎮撫総督(ちんぶそうとく)の参謀となります。明治以後は陸軍に入り、明治から大正にかけて3度内閣総理大臣になりました。

桂太郎・旧宅庭園
                             桂太郎・旧宅庭園






ページトップへ


案内

〒:    758-0061
住所:  山口県萩市椿3537-3
℡:     0838-25-1750 (社)萩市観光協会



地域別日本遺産









萩
                                        






ページトップへ


日本の地域遺産(目次)


日本の遺産-日本で出会う遺産トップページへ